鎌倉再建 – 重源上人の働き –

鎌倉再建
– 重源上人の働き –

治承の兵火と鎌倉復興

重源上人

平安時代になると、早くも大仏さまの背部に損傷が見られたり、傾斜を止めるために背後に盛り土をするなど補修工事がなされたが、斉衡2年(855)大地震により頭部が落ち、修復がなされた。

一方、大仏殿をはじめ諸伽藍も、天災や失火などにより修復を迫られることが多かった。こうした事業や寺院本来の教学活動のための財源を得るため、この時代には荘園が営まれていたが、平安時代末期になると、東大寺はその荘園をめぐって様々な紛争に巻き込まれ、ついに治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した。

東大寺の復興造営に大きな功績を残したのは重源上人であった。上人は養和元年(1181)、61歳で勧進職に任じられて以来、後白河法皇や源頼朝の援助を受けながら20数年間の後半生を復興事業に捧げた。

まず宋の鋳物師陳和卿の協力を得て、頭部や左手など大仏さまを補鋳、文治元年(1185)に開眼供養を行なった。続いて大仏殿再建のための用材確保に苦慮したが、周防国(すおうのくに)と備前国が東大寺造営料所に当てられてからは造営が急速に進み、建久6年(1195)に落慶供養会が営まれた。さらに翌年には大仏殿の両脇侍と四天王が僅か半年で造られたという。以後、境内の諸伽藍が次々と再建され、鎌倉時代の盛時を生み出した。