用語解説 其の一

二月堂縁起

『二月堂縁起』は修二会の始まりを次のように紹介している。
「天平勝宝三年辛卯十月、実忠和尚(じっちゅうかしょう)、笠置寺の龍穴より入て、北へ一里ばかりを過(す)ぐるに、都率(とそつ)の内院なりけり。四十九院、摩尼宝殿を巡礼す。其内、諸天衆(てんじゅう)集て、十一面悔過(けか)を勤修(ごんしゅ)する所あり。常念観音院と云う。聖衆の行法(ぎょうぼう)を拝して、此の行(ぎょう)を人中に摸して行うべき由(よし)を伺(うかがう)。聖衆告(つげ)て曰(いわ)く。此の所の一昼夜は、人間の四百歳にあたる。然(しから)ば行法の軌則(きそく)、巍々(ぎぎ)として千返(せんべん)の行道(ぎょうどう)懈(おこた)らず。人中の短促(たんそく)の所にては更(さら)に修めがたし。また、生身の観音をばましまさずば、いかでか人間すべからく摸すべきと云う。和尚重て申(もうさ)く。勤行(ごんぎょう)の作法をば急にし、千返の行道をば、走りて数を満つべし。誠を致(いたし)て勧請(かんじょう)せば、生身何ぞ成給はざらんとて、是を伝えて帰りぬ。」

行法の伝授を請う実忠の懇願にもかかわらず、都率の天衆は、「この天の一昼夜は人間界の四百年にも及び、行法のきまりは厳しく、日々千返の行道を怠ることなく勤めなくてはならない。時間に限りのある人間の世のこと、到底この行法を修めることはかなわぬ。」と実忠を諭(さと)す。「ましてや、生身の観音を本尊となさねばならず、人間の手によってこの行法を全うすることはかなわない。」と

しかし実忠は諦めなかった。「人間界の時が天界の時に及ばぬというのであれば、勤行(ごんぎょう)は調子を速め、行道の回数は走ってでも数を満たそう。生身の観音菩薩とて誠を尽くして請い願えば、たまわらないことがあろうか。」
かくして行法は伝えられ、次に『二月堂縁起』は生身の観音の勧請(かんじょう)の段となる。
「実忠和尚、摂津国難波津に行て、補陀洛山(ふだらくせん)にむかひて香花をそなへて海にうかべ懇請(こんぜい)をぬきいでて祈請勧請(かんじょう)す。かの閼伽(あか)の器はるかに南をさして行きてまた帰り来る。かくする事百日ばかりを経て、つゐに生身の十一面観音まのあたり補陀洛山より閼伽の器に乗りて来給へり。和尚(かしょう)是を当寺の羂索院に安置し奉る。今は二月堂という。」

翌天平勝宝4年2月、実忠は生身の観音の御前にて二七ヶ日夜六時の行法を修し、以後大同4年にいたるまで60回になんなんとする参籠を数えたと縁起は述べている。天平勝宝4年といえば4月に大仏開眼供養会が挙行された年、くしくも我が国に仏教が伝わって200年目とされる年であった。

不退の行法

二月堂での修二会は、天平勝宝4年(752年)に始められたとされるが、二月堂は東大寺が兵火に巻き込まれた時も罹災を免れ、また江戸時代の寛文(かんぶん)年間に二月堂そのものが火災にあった時も仮堂を使って勤めたということから、今日に至るまで一度も途絶えることなく続いてきたことになる。このことによって「不退の行法」と称せられることもある。

練行衆役配

練行衆は序列や役割によって「職:しょく(四職:ししき)」と「平:ひら(平衆:ひらしゅう)」とに大きく分かれる。一方これとは別に、堂内での席の位置によって、「北座衆」と「南座衆」に分かれる。

四職

和上(わじょう)
練行衆に戒(かい)を授ける役
大導師(だいどうし)
祈願を司る行法全体の導師
咒師(しゅし)
密教的、神道的なものをも含めた修法を司る
堂司(どうつかさ)
平衆を率い修二会の進行を司る

平衆

総(北)衆之一(衆之一)
北座(きたざ)衆の長であるとともに平衆の長
南座衆之一(南衆)
南座(なんざ)衆の長
北座衆之二(北二)
北座の次席
南座衆之二(南二)
南座の次席
中灯之一(中灯)
会中の記録役、かつては二人いた時代もある
権処世界(権処)
処世界を補佐
処世界(処世界)
堂内の掃除、準備等
現在では11名であるが、かつてはもっと人数が多かったり、 上七日(前半の七日)と下七日で練行衆が交代していたことが知られている。

別火

二月堂での修二会の本行は3月1日から14日間だが、それに先だって「別火」と呼ばれる前行の期間がある。「別火」とは用いる火を世間と区別して行(ぎょう)の精進を期するもので、現在では東大寺戒壇院の庫裏を別火坊と称して、練行衆全員が泊まり込みで行っている。

修二会本行は半月にも及ぶため、それに対する物心両面の準備が必要となる。「別火」では主にその準備の期間に当てられるが、前半と後半を、それぞれ「試別火」、「惣別火」と名付けて区別している。「試別火」は2月20日から25日(閏年は26日)まで行われ、「惣別火」はそれ以降2月末日まで続く。

糊炊き
椿の造花

試別火では、修二会での声明(しょうみょう)の稽古、行中に仏前を飾る南天椿の造花作り、灯明に使う各種灯心の準備、紙衣(かみこ)を作るための仙花紙(せんかし)絞り、「さしかけ」という二月堂内で履く履き物の修理、牛玉箱というお札を入れる箱の包み紙の新調、守り本尊の補修、紐作り、こより作り、紙の付け札作り、等が行われる。

惣別火風景
椿の花つけ

準備の合間には、社参と称する境内の参拝や、二月堂の湯屋に出かけての 「試みの湯」、二月堂内陣の掃除、また内陣に安置されている「小観音御厨子(こがんのんみずし)」を掃除する「厨子洗い」、東大寺の参籠しない僧侶に挨拶をする「暇乞い(いとまごい)」等が行われる。

さしかけ
貝の吹き合わせ

「試別火」の期間中は、火を世間と区別することをはじめ、色々と約束事に拘束されるが、自坊へ忘れ物を取りに戻ったり、境内であれば制約はあるが外出もできる。但し別火坊以外で湯茶や食事を口にすることはできない。さらに「惣別火」に入ると、制約がより厳しくなっていく。

「惣別火」の期間に入ると、いでたちも紙衣(かみこ)という仙花紙で作った紙の衣となり、特定の場所以外では 私語も一切禁止となり、そろっての食事等以外は湯茶も自由には飲めず、所作、作法も厳しくなり、部屋の外に一つある火打ち石で点火した火鉢以外は一切火の気がなくなってしまう。勿論外出などは論外で、部屋から出るときは屋内でさえ白鼻緒のわら草履をはき、各自一枚所持する「てしま(ござの一種)」の上以外は他の場所に座ることさえできない。

このような状況の「惣別火」期間中、練行衆は、下七日の声明の稽古、行中に使う糊たき、 二月堂内で刷るお札の紙を折る作業、ホラ貝の稽古、堂内の荘厳に使う椿の枝に造花を取り付ける作業、会中に使う法衣を身につけてみる「衣の祝儀(ころものしゅうぎ)」、行中の配役の一覧である「時数帳」の書写、等をして過ごす。

修二会中、毎日行われる行法

●六時(ろくじ)

六時とは一日を日中から夜明けまでの六つの時に分けたもので、日中、日没(もつ)、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)と呼ばれる。六時それぞれに悔過作法(これらをまとめて単に「時」とも呼ぶ)が勤められ、さらにその間に様々な法要や行事、作法が組み込まれている。
練行衆は、正午になると食堂(じきどう)において「食堂作法」として長い祈りの後に食事をとり、引き続いて二月堂本堂に上堂する。これ以降、日によっては翌日の午前四時頃にさえなる下堂の時まで、食事は勿論、水を飲むことさえ禁じられる。
上堂した練行衆は先ず掃除、準備をして日中・日没の「時」を勤め、例時の間と呼ばれる部屋で阿弥陀経を読誦し、内陣に戻り観音経を読誦、 初夜法要の準備をして下堂、湯屋にて入浴し、宿所にて休憩する。

平日は午後7時に東大寺の大鐘がならされ、それを合図に「おたいまつ」が点火される。
練行衆が上堂すると、初夜の行法としてまず「読経(法華音曲)」、初夜の「時」、「神名帳」、 「初夜大導師の祈り」、「初夜咒師作法」があり、引き続いて半夜の「時」、礼堂に出ての「法華懺法」が行われる。ただし、5、6、7日及び12、13、14日には「法華懺法」のかわりに「走り」が行われる。後夜になると後夜読経、後夜の「時」、「後夜大導師の祈り」、「後夜咒師作法」、さらに 晨朝の「時」が勤められ、その後童子の手松明の明かりを頼りに下堂して就寝する。下堂する時間は、日によるが、午前1時から午前4時半頃までの間となる。

修二会中、特定の日に行われる行法等

毎日の日程とは別に行われる行法等を次にあげる。

1日

午前1時頃、食堂で上七日(前半7日間)の「授戒」。上堂、内陣荘厳に引き続き、 開白と称してこの日だけ午前3時頃、日中の「時」を勤める。

5日

日中の「時」の後、「数取り懺悔(さんげ:三千遍礼拝ともいう)」。 初夜の初めに「実忠忌(修二会を創始された実忠和尚の命日)」 の法要が営まれる。またこの日の初夜の「時」が終わって「神名帳」が読誦された後、「過去帳」が読み上げられる。
青衣の女人(しょうえのにょにん)の物語はこれにまつわるものである。

7日

日中の「時」の後、「数取り懺悔」。日没の「時」の後で「小観音出御 (内陣後堂に安置されている小観音御厨子(みずし)が礼堂に出御)」の法要。小観音御厨子は後夜の「時」の間に再び内陣に運び込まれ、これ以降、内陣正面に安置される。

12日

日中の「時」の後、「数取り懺悔」。初夜大松明(籠松明:かごたいまつ、 11本/午後7時30分)にて上堂。初夜終わって「神名帳」。その後に「過去帳」の読み上げ。 後夜の「時」の途中に咒師以下、二月堂下の若狭井に水を汲みに下る。これをお水取りという。 後夜の「時」が終わって咒師作法の後、「達陀(だったん)」の行法。

13日

後夜咒師作法の後、「達陀」。

14日

日中の「時」の後、「数取り懺悔」。この日は本行最終日で、後の片付け等のため、お松明はあまり間隔を空けずに上堂する。これを「尻付け松明(しりつけたいまつ)」という。後夜咒師作法の後、「達陀」。この日の晨朝の「時」のことを「名残り(なごり)の晨朝」と呼ぶ。一旦下堂後、「破壇」のため上堂。 以下15日のこととみなして続ける。

15日

「破壇」に引き続き「涅槃講」、咒師の「神供」、大導師の「神所」、咒師の「護摩」などがあって下堂。仮眠して午前10時半頃、湯屋にて入浴、宿所にて昼食、上堂して「四座講」、「開山堂参拝」の後、解散。
現在では11名であるが、かつてはもっと人数が多かったり、 上七日(前半の七日)と下七日で練行衆が交代していたことが知られている。