秘仏開扉について

Unveil of treasured Buddhist images

開扉日
場所
秘仏名
時間など
7月5日
12月16日
俊乗堂
俊乗房重源上人坐像(国宝)
阿弥陀如来立像(重文)
愛染明王坐像(重文)
7/5・・・俊乗忌法要終了後堂内準備が整い次第開扉 11時頃~16時まで【有料】
12/16・・・9時頃~16時まで【有料】

【国宝】俊乗房重源上人坐像(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにんざぞう)

本像は、東大寺の鐘楼脇に建つ俊乗堂に安置されている。俊乗房重源上人は、治承四年東大寺炎上後の復興事業にあたり、諸国を普く勧進し、その功を遂げた人である。建久6年(1195)、3月12日、天皇行幸の下に、大仏殿落慶供養を営み建永元年(1206)に入滅した。

この像は、その菩提を弔うために弟子等が造立したと伝えられている。制作年代は、建永元年を余り隔たらぬ頃のものであろう。作者は不明であるが、その優れた写貌の手法より考え、また、鎌倉初期の仏師達の活動の中心地であった東大寺と俊乗上人との関係からしても、康慶一派の第一流の彫刻家の手になったことは、想像に難くない。保存状態は、たいへん良好である。

お願い

堂内での撮影・スケッチ・懐中電灯の使用はご遠慮下さい。

10月5日
勧進所八幡殿
僧形八幡神坐像(国宝)
転害会終了後
10時頃~16時【有料】
あわせて、勧進所阿弥陀堂の「五劫思惟阿弥陀如来坐像」及び、公慶堂の「公慶上人坐像」も拝観可能

【国宝】僧形八幡神坐像(そうぎょうはちまんしんざぞう)

僧形八幡神坐像は、東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡神社)の御神体であったが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって、東大寺に移されたもの。 同宮は、治承4年(1180)12月の平氏の焼き討ちにより炎上したが、造東大寺大勧進俊乗房重源上人により再建された。その際、焼失した御神体の新造が計画された。
当初重源上人は、京都・鳥羽光明院に伝来した空海感得の御影の下賜を後鳥羽院に願い出たが、東寺再興の文覚上人や石清水八幡宮も競望するところとなり、結局東大寺には下賜されなかったため、重源は信頼厚き快慶に委嘱して、この神像を新造したのであった。
本像は桧製で、頭・体部は正中線で縦木二材を合わせている。内部は頭部にいたるまで内刳りを施してあり、漆で麻布が貼られている。ここに任阿弥陀仏寛宗の筆になる長文の墨書銘があり、その中には、後鳥羽天皇や七条・八条両女院、仁和寺守覚法親王を始め、今はなき後白河院、東大寺別当弁暁や造像に従事した快慶を中心にした結縁の仏師、銅細工師業基、漆工、或いは笠置寺貞慶の叔父澄憲や明遍等の碩学の名も記されている。
右衽の衣の上に袈裟を懸け、右手に錫杖を執り、左手は膝のやや内寄りに置いて数珠を繰り、十方二段切付けの蓮華座に安坐する比丘形で、背後に円形の頭光をめぐらしている。一見地蔵菩薩を思わせる相好をし、肖像とみまごう程に写実的で快慶一派のすぐれた刀法の冴えを示している。また錫杖・光背・台坐は当初のままで、遠山袈裟・肉身にもあざやかな彩色を残しており、鎌倉時代における神像としては他に比肩するものがない秀作である。転害会の法要終了後、神像を拝観することができる。
(僧形八幡神坐像一般開扉のパンフレットより)

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【重文】五劫思惟阿弥陀如来坐像(ごこうしゆいあみだにょらいざぞう)

僧形八幡神坐像一般開扉日(毎年10月5日)にあわせて、公慶堂・公慶上人坐像も拝観可能(有料)

五劫思惟阿弥陀如来は、阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると48の大願を成就するために永い間、剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという。劫とは永い時間を示す単位で、方四十里もある大磐石を100年に一度ずつ白氈で払って、その石がすりきれてなくなっても終わらない時間だといい、要するに永遠・無限をさすものと解してよいであろう。

五劫思惟像の遺品はきわめてすくなく、この像のほか、東大寺の末寺五劫院の像、同じ勧進所の十数cmほどの小像のほか、奈良十輪院、京都大蓮寺、和歌山道成寺、京都西向寺、東京淨真寺などに見られるにすぎない。いずれも厚く覆いかぶさるような頭髪で、衣を両肩からつけて坐している。その手は、十輪院像、大蓮寺像が本像と同じく合掌し、勧進所の小像や道成寺像が五劫院像のように定印を結ぶ手を袖のなかにかくしている。また、西向寺像や淨真寺像は定印の手を外に出しており、およそこの3つに大別される。いずれも鎌倉時代以後、江戸時代に至る作であるとされる。

顔だちは頬が張って四角く、扁平で、目鼻立ちが小さく中央に集っている感があり、通常の阿弥陀像と大きな差を見せている。寺伝では、重源上人が宋から将来したものというが、材は桧であり、おそらく日本で宋の彫刻などにならって、鎌倉時代につくられたものと推測される。とすれば、この像の特異な面貌や一風変わった、重く、鈍い衣文表現なども理解される。構造的に寄木造、玉眼使用の全盛期の作であるのに、彫眼であり、頭や体はもちろん膝まで一材から彫り出しており、膝が厚く小さいのも、それゆえかと思われる。
(僧形八幡神坐像一般開扉のパンフレットより)
10月5日
公慶堂
公慶上人坐像(重文)
八幡殿での法要終了後
10時頃~16時【有料】
公慶上人坐像(重文)拝観可能

【重文】公慶上人坐像(こうけいしょうにんざぞう)

公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第2の中興開山といわれる。彼は13歳の時、東大寺大喜院で得度し、雨に打たれる露座の大仏を見て大仏殿再建の志を立てたという。貞享元年(1684)37歳の時、江戸幕府に大仏殿再興および諸国勧進を願上し、翌2年から勧進を開始した。貞享3年(1686)から始まった大仏の修復は六年を要し、元禄5年(1692)開眼供養が行われた(45歳)。さらに大勧進公慶は大仏殿再興に尽力し、宝永2年(1705)閏4月に大仏殿の上棟式を執行したが、3か月後の7月12日江戸で病にかかり、工事半ばで示寂した。享年58歳。没後、公慶上人の偉業を伝えるため、遺弟の公盛によって本像が造立され、翌3年(1706)5月、龍松院勧進所の御影堂に奉られた。ちなみに大仏殿の落慶は没後4年の宝永6年(1709)であった。

本像は朱衣および袈裟を着けて、胸前で手を組み、畳座に坐して礼拝する姿をあらわす。袈裟の色は茶色を地とし、朱・銀の盛上彩色によって雲龍文を散らしている。表現方法ともに近世彫刻の伝統を踏襲し、衣文構成に形式の硬化と誇張が指摘できるのだが、しかし頭の鉢が大きく、小さな目が窪み、頬のこけた風貌は、生彩がある。柔和な表情のなかに公慶上人の不屈の信念があらわれており、像主の感情表現は写実的である。「公慶年譜」によると、本像は大阪仏師の椿井民部法橋性慶と公慶の弟子即念の共同制作によると記している。町仏師の性慶が彫刻担当なのだが、公慶上人に親炙していた即念が、みずから「頭面」を模刻したという。「まことに、その生けるを見るがごとし」との評言は、2人の彫刻的技量を考えるのに示唆深い。本像は江戸彫刻のなかでも写実に優れた肖像として注目すべきものである。

作者性慶は本像造立を遡ること7年前の元禄11年(1698)に当寺念仏堂の地蔵菩薩像(鎌倉時代)を修理しており、元禄14年(1701)徳川家康(東照権現)像を造立した。椿井の姓は室町時代奈良仏師のひとつ、椿井仏所に求められ、江戸時代の寛文6年(1666)椿井仏所が分裂し、一派が大阪堺筋町に移り住んだという。即念は前に述べたとおり、公慶上人に長らく随ってきた弟子であり、他に大仏の光背のために京都の大仏光背を検分しており(正徳4年 1714)、また行基菩薩(享保13年 1728)を椿井賢慶とともに作っている。

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12月16日
開山堂
良弁僧正坐像(国宝)
開山堂月例寺役法要終了後
10時頃~16時【有料】

【国宝】良弁僧正坐像(ろうべんそうじょうざぞう)

東大寺二月堂下、四月堂北側白壁の囲みの中に、宝形造(ほうぎょうづくり)の小さなお堂がある。東大寺の初代別当良弁僧正をおまつりしたお堂で、国宝に指定されている。その内陣中央に八角造の厨子が据えられ、国宝の僧正像が安置されている。がっしりした体躯に気魄をみなぎらせた肖像彫刻の傑作である。

良弁僧正は、一説には持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといわれるが、別伝では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれている。東大寺の前身寺院である金鐘寺(きんしょうじ)に住したのち、東大寺の創建に尽力され、天平宝字7年(763)に僧正位に昇り、宝亀4年(773)閏11月16日に遷化された。

それから246年後の寛仁3年(1019)初めて御忌法要が営まれたが、開山堂はそのときに創建され、安置の僧正像も同時に造立されたといわれている。ただ僧正像についてはその重厚な造りや鋭い衣文表現などから、様式的には9世紀後半の作とする説もある。
持物の如意は厨子内の杖とともに、僧正遺愛の品と伝えられる。

一方、開山堂については近年の解体修理の結果、現在のお堂は重源上人が 東大寺再建の一環として正治2年(1200)に全面的に改築され、さらにその後、建長2年(1250)に現在地に移築されるとともに、外陣(げじん)を増築して現在のような建物になったことが判明した。とりわけ注目すべきは内陣部分で、その構造や意匠の点で、小堂ながらも随所に重源上人の大仏様建築に特有な手法が見られる。良弁忌の法要終了後、拝観することができる。

(開山堂開扉のパンフレットより)

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堂内での撮影・スケッチ・懐中電灯の使用はご遠慮下さい。

12月16日
法華堂
執金剛神立像(国宝)
9時台後半頃~16時【有料】

【国宝】法華堂執金剛神立像(ほっけどうしゅこんごうじんりゅうぞう)

執金剛神像とは金剛杵(こんごうしょ)を執って仏法を守護する神のことで、金剛力士(仁王)はこの神将が発展して生まれたといわれている。法華堂の執金剛神像はこの神将のうちでも古来もっとも著名なもので、すでに9世紀初頭に成立した『日本霊異記』に、「法華堂本尊不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう)の背後の厨子内に北面してまつられていた」と記されている。目を瞋(いか)らせ、口をかっと開いて、いまにも怒号とともに金剛杵を振り下ろそうとする一瞬の姿が見事にとらえられている。

この像の成立時期については諸説あるが、東大寺の前身寺院である金鍾寺(きんしょうじ・或いは、こんしゅじ)時代の良弁によって発願されたとすることはまちがいないとされる。また、髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐の端が欠失しているのは、天慶2~3年(939~940)の平将門の乱のおり執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、大蜂となって東方に飛び去り、将門を刺して乱を平定したからだとされ、この像の霊異伝説のもととなっている。

宝前左右の両柱に懸けられている鉄製の燈籠(重要文化財)は、この説話にもとづいて造られたもので、火袋に蜂が、左では木の枝に止まる姿で、右では羽を広げて空中を飛ぶ姿で、それぞれ透かし彫りで表されている。

制作年代は不明であるが、火袋上段に見られる唐草文の蔓の延びや形から、室町時代頃のものと推定されている。 厨子の両側には板絵が描かれているが、この同じ執金剛神像にまつわる説話のうちから2つの場面を描いたもので、板絵裏面の墨書銘によると、寛永11年(1634)6月に辻七右衛門丞なる人物によって寄進されたものである。

(執金剛神立像開扉のパンフレットより)

【重要】 秘仏等の特別開扉 一部変更のお知らせ

2024年より、秘仏等の特別開扉の入堂料を800円に改定いたしました。また、2018年までは公慶堂を年2回(4/12・10/5)に公開しておりましたが、2019年より年1回、10/5のみの公開へと変更させていただきました。ご参拝の皆様には、ご理解いただきますようお願い申し上げます。